「あたりまえ」の観念は、伝統・慣習・しきたり・習慣・掟といった、国家・民族の独自性と同義の“不文律”であることが多い。だから、道徳に関する規定は書かれていない(=明文化される必要がない)社会こそ健全な社会である。
では、伝統・慣習の揺籃たる家族を、憲法の規定によって保護し尊重するのは、よくないことなのだろうか。
家族の尊重保護規定が憲法に盛り込まれなければならないのは、家族が国民の自由に欠くべからざるものであり、国家永続の温室である「中間組織」でもある以上、当然のことである。
《憲法は、国家永続にとって“柱のなかの柱”たる家族について、「保護され尊重される」が明記されていなければならないし、それが憲法である。これ以上のものを仮につけ加えるとすれば、「家族による祖先の祭祀に対する国家の保護」ぐらいであって、その他はない。》(中川八洋『国民の憲法改正』、124~125頁より引用)
家族が尊重され、保護されているのならば、これに優ることはないし、憲法に規定しておく必要はないのかもしれない。しかし、今日の日本においてはそうではない。日本には家族を解体するための数々の策動があり、それを許さないからだ。
この意味から言えば、自民党の改憲草案の第24条「家族は、互いに助け合わなければならない」は、条文として不適切であり、「家族は保護され尊重される」としなければならない。家族の保護・尊重の規定に家族内における相互扶助も含まれるからだ。
《元来の憲法は、上記の「家族の保護・尊重」の規定で充分であるが、世界で日本のみ、『共産党宣言』の家族解体の教理に国民の多数が汚染されている状況を鑑みれば、自由の擁護とコインの裏表である、家族の尊重に反する立法の動きを禁止する必要がある。》(前掲書、125頁より引用)
リベラリストたちは、憲法が国家権力の横暴を防ぐためにあるという偏頗な憲法論しか開陳しない。しかし、“人民”の名の下にすべての暴政が免罪され、悪いのはすべて政治であり、官僚であり、自分以外である、というならず者思考が広く日本をおおっている。この事実こそ、日本にはいまだに「プロレタリアート独裁」(=国民主権)を叫ぶ狂信徒が亡霊の如く跳梁跋扈しているなによりの証左であろう。
憲法とは、“法”のほんの一部分を成文化したものにほかならない。国家も国民もともに“法の支配”に服する。だから、憲法が想定すべきなのは国家権力のみではなく、“人民”による際限のない横暴をもまた、防ぐものでなければならない。「絶対的な権力は絶対的に腐敗する」(アクトン卿)。これは、共産主義/マルクス・レーニン主義の台頭によって失われた数百万人もの人々の血を持ってあがなわれた“人類普遍の教訓”である。情報通信技術が飛躍的に向上した現在(と今後)においては、強調してもしすぎることはない。
憲法からは、こうした横暴を許すすべての規定を削除しなければならないし、その芽を摘む規定を明文化しておかねればならない。
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